感性の時代 メモ



感性の時代 メモ1
人間は
生まれて後に
努力して
人間としての格を獲得して
人間に成るのである。
→格には、人格と性格がある。
性格は生来のもので、なかなか変えられない。
人格は努力で変えて行くことができる。
人格における深さ・高さ・大きさを
追求していくことで
人格を創り上げていくことができる。
人間におけるすべての活動は、
精神的活動も、肉体的活動も、感性的活動も、
その全てが、感性の中に知らず識らずのうちに
経験という形で
記憶として積み重ねられ、蓄積されて、
その総体が人格の実質を
自然に形成していくのである。
感性的実質
→人格の実質の主たるもの。
それが感性的実質。
体験したことを感性で捉え、
理性で理解して記憶として残っていくもの。
人格教育の理念は、
理性の発達ではなく、
感性の人間化に置かれねばならない。
理性的な知識や技術の量ではなく、
理性の思索的活動を通して得られる自覚の質が、
感性の感じ方を深め高め、
感性を人間的なものへと成長させるのである。
→感性の人間化。
理性の人間化ではない。
理性の思索的活動を通して
得られる自覚の質が
重要なのだ。
自覚。自らを覚える。
自省。自らを省みる。
内省。内なる自分との対話。
内観。内なる自分と遭遇する。
自律・自主・自立。

感性の時代 メモ2
101P●
そこで、
このような社会不安から我々が脱却する道は、
弁証法の否定と
哲学的な意識革命をおいて
他にはない。
思風先生は50年以上前に
すでに明確な答えを
示してくれている。
社会不安から脱却する2つの道
①弁証法の否定
②哲学的な意識革命
だから、
難解とは言え、
徹底的に本書を読みこなして
弁証法の否定を
腑に落とさなければならない。
だから、
前著「感性論哲学の世界」を
よく理解し、
哲学的意識革命を
強固なものにしなければならない。
そして、哲学技術に
熟達しなければならないのである。

感性の時代 メモ3
100ー101●
この100ページと101ページの2ページは、
本書の中でも
核心の部分と言って良いように思う。
そこでその全文について
ご紹介する。
読みやすく、わかりやすくするために
分かち書き表記にしてあるので
何度も何度も読み返してみてほしい。
コピペして、引用箇所を
プリントアウトして
書き込みをしながら咀嚼してほしい。
後に続く2つの脱却の道が
より理解することができると思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
私の提唱する
根源的統一の論理学においては、
先ず、全ての存在は、
本質的なるものの現象であるから、
存在は、全て、その内に、
「存在する事への必然性」を持って
現れ出てきていると考える。
だから、この意味において、
全ての現象的存在は、常に、
本質との関係において、
論理的整合性を保っているから、
いかなる存在も、
本質との関係においては、
矛盾した現象は存在しない事になる。
しかし、本質は、
無規定的なものであるが、
現象は、時間空間内に現れ出る事によって、
当然に規定され、限定されて
個性を持つことになるから、
無規定的な本質の立場からすると、
一定の規定を受けた存在は、
必然的に不完全で欠点を持つことになる。
そこで本質は、
それを補う為に、
新たなる補完的な現象を現し出して、
現象世界を少しでも
本質における完全性に
近づけるように働かざるを得ない。
この現象世界における
バランスを保とうとする本質の働きによって
生じた現象世界の存在どうしは、
互いに本質を意識しあうことなく、
向かい合えば、
当然、現象世界の中で、
互いに相矛盾し、
対立せざるをえない関係に立たされる。
この現象的な対立関係を肯定して、
人為的にアウフヘーベンを計ろうとすれば、
ヘーゲルにおいては、
前述の如き理由で(※別の機会に取り上げる)、
それは容易に実現されることになるのであるが、
現実においては、
対立しているものは、
互いに個性的な存在することへの必然性を持っていて、自己を主張することになるから、
どうしても相互否定的関係に
発展せざるを得ないこととなる。
たとえ、より高次元の判断機能が働いて、
裁判や調停が行われたとしても、
互いに対立する両者が存在する限り、
決して自己の存在理由を
放棄する事はないからである。
それ故、
否定を媒介とするアウフヘーベンが
人為的に行われる限り、
永遠に、相互否定的関係は消えさらず、
そこから必然的に生じる対立的感情は、
どこまでも深化し、
ついには遺恨となってしまうのである。
問題解決の第一の要件は、
後に遺恨を残さないことであるとすれば、
現実的な問題に、
ヘーゲルの弁証法で対処する事は、
もはや許されないことなのである。
それにも拘らず、
現実の社会においては、
ほとんどの問題が
裁判にしても、労使関係にしても、
政党間の問題にしても、
すべてヘーゲルの弁証法によって
解決が図られようとしており、
その結果、
周知のごとく対立する業者の間に、
拭い切れない感情的対立を、
根深く残すこととなってしまっているのである。
このようにして、
現在、理性によって惹き起こされる感情的対立は、
その真の原因が
人々によって自覚されないままに、
大きな社会不安と社会悪の一因を
形成しているのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

感性の時代 メモ
ここ数回のメモの対象文、
100ー102ページは、
今年の全国大会のテーマでもある
「平和」にも大きく関係している。
先生自身が「平和の論理である」と
言っていることからも明らかである。
本書の中で、
気になっている箇所について
引き続き、メモしておきたいと思う。
101-102●
すなわち、
相反する存在理由や、
相反する主張を持って存在している両者を、
現象世界における矛盾的関係として
把握するのではなく、
本質との関係から、
両者ともに必然的であり、
無くすことの出来ない関係であると、
視点を変えて捉えなおすのである。
又、両者を
対立的関係にあると考えるのではなく、
共に互いの足らざる所を補いあう
共存的で、補完的関係にあると
考え直すのである。
これは、高次の立場から、
現実世界の両者の関係を見て、
矛盾を必然と理解し、
対立を共存と解釈せよと言うのではなく、
現実に相反する立場にある両者が、
それぞれに、
自己の立場と、他者の立場を、
そのようなものと自覚し考える意思革命が、
両者において
必要であると言うのである。
そして、この意識革命は、
単なる観念上の解釈とか、
善意による理想主義的な立場から
主張されているのではなく、
現実存在に対する哲学的な原理的反省に基づいて、
現象と本質からなる世界の体系的構造からして、
そのように考えねばならぬという
論理的要請という根拠に立って、
主張されているものなのである。
もし現実に、
このような意識革命が、
すべての人々において実現されるならば、
従来の弁証法における否定的な矛盾的関係は、
必然的関係となり、
対立関係は、
必要不可欠な補完的関係に変質する。
それに伴って、
現実世界における相互否定的な関係は、
ほとんど消失し、相互補完的な関係が、
現実を支配し動かすことになるのである。
それが故に、当然の事ながら、
感情的対立の生ずる現実的関係は失われ、
それに代わって、
共存的で互敬的な感情を生ぜしめる
現実的基盤が出来上がるのである。
そこで、
現実に生じる様々な問題は、
基本的に、このような人間相互の融和的感情の上で
解決が進められることとなる。
感情的対立があったのでは、
理性的に解決できるものまで、
その解決が妨げられてしまうのが常である。
しかし、如何なる場合にも、
融和的感情を持って
人間どうし向かい合う事が、
哲学的論理的において、
正しい現実理解であり、
正しい倫理的要請であるという事が、
充分に納得され、
対立は恥であり罪であるという思想が定着すれば、
本当は解決の困難な問題までも、
解決へと動き出す事になるのである。
この意味で、
根元的統一の論理は、
平和の論理であると言う事ができる。

感性の時代 メモ5
先に、
「そこで、このような社会不安から
我々が脱却する道は、
弁証法の否定と、哲学的な意識革命をおいて
他にはない。」
ということについて触れた。
脱却した後の目指すところを示している箇所が、
ここであると考えればつながってくる。
つまり、
弁証法の否定と
哲学的な意識革命を行うことにより、
社会不安から脱却する。
そして、
有機的な統合性を持った社会のあり方を
目指す、のである。
106●
とにかく、
われわれは、
弁証法によって、
理性的に整合性のある社会を
建設しようとするのではなく、
根元的統一の論理学に従って、
相互補完的、相互依存的な存在意識を持って、
有機的な統合性を持った社会のあり方を
目指さねばならないのである。

感性の時代 メモ6
150-152●
ここも本書の重要ポイン感性の時代 メモ5
先に、
「そこで、このような社会不安から
我々が脱却する道は、
弁証法の否定と、哲学的な意識革命をおいて
他にはない。」
ということについて触れた。
脱却した後の目指すところを示している箇所が、
ここであると考えればつながってくる。
つまり、
弁証法の否定と
哲学的な意識革命を行うことにより、
社会不安から脱却する。
そして、
有機的な統合性を持った社会のあり方を
目指す、のである。
106●
とにかく、
われわれは、
弁証法によって、
理性的に整合性のある社会を
建設しようとするのではなく、
根元的統一の論理学に従って、
相互補完的、相互依存的な存在意識を持って、
有機的な統合性を持った社会のあり方を
目指さねばならないのである。トである。
「感性の時代」のサブタイトルに
「東洋に逆襲」とあるところからも
明らかである。
今回は
「東洋の逆襲」のページを取り上げる。
その中で
「『根元的統一の論理学』は、
感性を原理とした哲学的論理を
西洋的概念を使って自覚化したもの」
と言っている箇所がある。
ここに
思風先生の「日本の哲学者」としての
立ち位置が明確に見てとれるのである。
そうではなく、第3の学問ということで
「全一学」なる学問を提唱した
森信三先生のような方もいたことを
付言しておく。
「日本の常識は、世界の非常識」などと
言われていたこともあるが、
時代のパラダイムが変わり、
精神的な深さの違いからきていることを
説いてくれている。
それでも、西洋人はまだまだ
理性を拠り所にして科学的に
調査研究している。
ヘーゲルの弁証法的世界の中で進めている。
科学に哲学が必要だとか、
学際的になってきていると言っても
ヘーゲルの掌の上でのことのように見える。
まだまだ、「感性の時代」の心や魂が
弱く暗く至らない故に
東洋の逆襲をしきれない自分がいて、
はがゆく、もどかしいおもいを
しているものである。
逆襲というより
導いてあげられる
強く優しく温かい心が欲しい、
天や宇宙に通じる透明感とゆらぎが欲しい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
東洋の逆襲
東洋の逆襲、
それは理性と感性の価値転換を意味する。
なぜなら、西洋の魂は、
理性の合理性であるが、
東洋の魂は、
感性の実感である。
今や、合理性は、人格の中核、
および人間の目的であることを拒否され、
批判の対象となっており、
人々は、理性によっては把握し得ない感動や、
実感の内容を成すものに、
人間の本質を認めようとしているからである。
西洋の学問は、
理性の合理性を拠所として発展し、
高められてきたが、
東洋の悟道の文化は、
もっぱら感性の実感を頼りに探求され、
深められてきたのである。
理性の文化が、
原理的に行き詰まり、停滞し、
欠点を露呈して、
社会や人間に不安や苦しみを与えている現在、
世界は、理性的形式より、
感性的実質に根拠を求め、
理性的真理よりも、
感性的真実を重視する文化へと
方向転換をする必要があるのである。
この感性の実感を重視する文化こそ、
東洋的精神の特色をなすものである。
世界は、すでに、
東洋の文化を求め始めている。
文化における東洋の逆襲は
始まっているのである。
しかし、残念な事に、
東洋の文化は、個々に、それぞれが、
伝統的保守的閉鎖的で、
文化全体に通ずる普遍的原理を、
自覚的に探求し、
思想的に表現せんとする努力に欠けている。
東洋的精神は、
個々の文化としては、
高次元なものとして存在していても、
その原理的で本質的な自覚を
普遍的な思想的体系として、
自覚化するところまでは
行っていないのである。
それがために、
感性を原理とする東洋の文化は、
西洋の人々によって
充分に理解し得るものとはならず
西洋における東洋文化の移入は、
現在のところ、
表面的で形の上だけの、
単なる趣味的な段階に
終わっているのである。
感性を原理とする文化が、
具体的に理性を現実をする文化と、
どのように相異するのか、
どのように考え感じ行動する事が、
感性を原理とし、
実感や真実を重視する事に成るのか、
これ等の問題を
哲学的論理的に明らかにしなければ、
東洋の文化は、
西洋の人々の行き方を
実質的に実質的に変え得る思想としては、
決して受け入れられはしないし、
ひいては、
理性文明の行き詰まりを打開し、
世界人類を救済し得る新しい力には
なり得ないのである。
その意味で、
「感性の時代」の中で、
私が提案した「根元的統一の論理学」は、
東洋的精神、なかんずく、
日本的精神が内包する、
感性を原理とした哲学的論理を
西洋的概念を使って自覚化したものであり、
民族精神の普遍化によって生まれた世界的精神として、世界人類を導く、新しい指導原理と
なり得るものではないかと思うのである。
新しい時代は、
新たな理念と、
それを支える哲学的信念(論理)の確立ととも
始まるのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この箇所と通じる所があるので
それも紹介しておく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
155-156●
とにかく、
日本の文化が、西洋には見られない
「実体としての感性」、
「本質的存在としての感性」の上に
構築されていると言う発見は、
これからの世界文化の発展を考える上で
見逃せない重要な意味を提起することになるであろう。
ことに、観念論的考え方と唯物論的考え方とを
統一に導くことが、
現行の世界における
思想的・文化的・政治的最大の課題の1つである
とすればなおさらのことである。
今日までの日本人が、
このことに無自覚であったが故に、
我々は、
西洋的な考え方への追従から
原理的に脱し得なかったわけであるが、
今、世界を指導するブレーンの一角を
担い得た日本人は、
この日本文化の本質を
自らの魂として自覚化し、
日本精神の哲学として持つことによって
いたずらに
外国の考え方に振り回されることのない
自信と確信に満ちた国際人として、
世界へ雄飛することができるのではないかと考える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー