感性の時代 メモ3
100ー101●
この100ページと101ページの2ページは、
本書の中でも
核心の部分と言って良いように思う。
そこでその全文について
ご紹介する。
読みやすく、わかりやすくするために
分かち書き表記にしてあるので
何度も何度も読み返してみてほしい。
コピペして、引用箇所を
プリントアウトして
書き込みをしながら咀嚼してほしい。
後に続く2つの脱却の道が
より理解することができると思う。
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私の提唱する
根源的統一の論理学においては、
先ず、全ての存在は、
本質的なるものの現象であるから、
存在は、全て、その内に、
「存在する事への必然性」を持って
現れ出てきていると考える。
だから、この意味において、
全ての現象的存在は、常に、
本質との関係において、
論理的整合性を保っているから、
いかなる存在も、
本質との関係においては、
矛盾した現象は存在しない事になる。
しかし、本質は、
無規定的なものであるが、
現象は、時間空間内に現れ出る事によって、
当然に規定され、限定されて
個性を持つことになるから、
無規定的な本質の立場からすると、
一定の規定を受けた存在は、
必然的に不完全で欠点を持つことになる。
そこで本質は、
それを補う為に、
新たなる補完的な現象を現し出して、
現象世界を少しでも
本質における完全性に
近づけるように働かざるを得ない。
この現象世界における
バランスを保とうとする本質の働きによって
生じた現象世界の存在どうしは、
互いに本質を意識しあうことなく、
向かい合えば、
当然、現象世界の中で、
互いに相矛盾し、
対立せざるをえない関係に立たされる。
この現象的な対立関係を肯定して、
人為的にアウフヘーベンを計ろうとすれば、
ヘーゲルにおいては、
前述の如き理由で(※別の機会に取り上げる)、
それは容易に実現されることになるのであるが、
現実においては、
対立しているものは、
互いに個性的な存在することへの必然性を持っていて、自己を主張することになるから、
どうしても相互否定的関係に
発展せざるを得ないこととなる。
たとえ、より高次元の判断機能が働いて、
裁判や調停が行われたとしても、
互いに対立する両者が存在する限り、
決して自己の存在理由を
放棄する事はないからである。
それ故、
否定を媒介とするアウフヘーベンが
人為的に行われる限り、
永遠に、相互否定的関係は消えさらず、
そこから必然的に生じる対立的感情は、
どこまでも深化し、
ついには遺恨となってしまうのである。
問題解決の第一の要件は、
後に遺恨を残さないことであるとすれば、
現実的な問題に、
ヘーゲルの弁証法で対処する事は、
もはや許されないことなのである。
それにも拘らず、
現実の社会においては、
ほとんどの問題が
裁判にしても、労使関係にしても、
政党間の問題にしても、
すべてヘーゲルの弁証法によって
解決が図られようとしており、
その結果、
周知のごとく対立する業者の間に、
拭い切れない感情的対立を、
根深く残すこととなってしまっているのである。
このようにして、
現在、理性によって惹き起こされる感情的対立は、
その真の原因が
人々によって自覚されないままに、
大きな社会不安と社会悪の一因を
形成しているのである。
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感性の時代 メモ6
150-152●
ここも本書の重要ポイン感性の時代 メモ5
先に、
「そこで、このような社会不安から
我々が脱却する道は、
弁証法の否定と、哲学的な意識革命をおいて
他にはない。」
ということについて触れた。
脱却した後の目指すところを示している箇所が、
ここであると考えればつながってくる。
つまり、
弁証法の否定と
哲学的な意識革命を行うことにより、
社会不安から脱却する。
そして、
有機的な統合性を持った社会のあり方を
目指す、のである。
106●
とにかく、
われわれは、
弁証法によって、
理性的に整合性のある社会を
建設しようとするのではなく、
根元的統一の論理学に従って、
相互補完的、相互依存的な存在意識を持って、
有機的な統合性を持った社会のあり方を
目指さねばならないのである。トである。
「感性の時代」のサブタイトルに
「東洋に逆襲」とあるところからも
明らかである。
今回は
「東洋の逆襲」のページを取り上げる。
その中で
「『根元的統一の論理学』は、
感性を原理とした哲学的論理を
西洋的概念を使って自覚化したもの」
と言っている箇所がある。
ここに
思風先生の「日本の哲学者」としての
立ち位置が明確に見てとれるのである。
そうではなく、第3の学問ということで
「全一学」なる学問を提唱した
森信三先生のような方もいたことを
付言しておく。
「日本の常識は、世界の非常識」などと
言われていたこともあるが、
時代のパラダイムが変わり、
精神的な深さの違いからきていることを
説いてくれている。
それでも、西洋人はまだまだ
理性を拠り所にして科学的に
調査研究している。
ヘーゲルの弁証法的世界の中で進めている。
科学に哲学が必要だとか、
学際的になってきていると言っても
ヘーゲルの掌の上でのことのように見える。
まだまだ、「感性の時代」の心や魂が
弱く暗く至らない故に
東洋の逆襲をしきれない自分がいて、
はがゆく、もどかしいおもいを
しているものである。
逆襲というより
導いてあげられる
強く優しく温かい心が欲しい、
天や宇宙に通じる透明感とゆらぎが欲しい。
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東洋の逆襲
東洋の逆襲、
それは理性と感性の価値転換を意味する。
なぜなら、西洋の魂は、
理性の合理性であるが、
東洋の魂は、
感性の実感である。
今や、合理性は、人格の中核、
および人間の目的であることを拒否され、
批判の対象となっており、
人々は、理性によっては把握し得ない感動や、
実感の内容を成すものに、
人間の本質を認めようとしているからである。
西洋の学問は、
理性の合理性を拠所として発展し、
高められてきたが、
東洋の悟道の文化は、
もっぱら感性の実感を頼りに探求され、
深められてきたのである。
理性の文化が、
原理的に行き詰まり、停滞し、
欠点を露呈して、
社会や人間に不安や苦しみを与えている現在、
世界は、理性的形式より、
感性的実質に根拠を求め、
理性的真理よりも、
感性的真実を重視する文化へと
方向転換をする必要があるのである。
この感性の実感を重視する文化こそ、
東洋的精神の特色をなすものである。
世界は、すでに、
東洋の文化を求め始めている。
文化における東洋の逆襲は
始まっているのである。
しかし、残念な事に、
東洋の文化は、個々に、それぞれが、
伝統的保守的閉鎖的で、
文化全体に通ずる普遍的原理を、
自覚的に探求し、
思想的に表現せんとする努力に欠けている。
東洋的精神は、
個々の文化としては、
高次元なものとして存在していても、
その原理的で本質的な自覚を
普遍的な思想的体系として、
自覚化するところまでは
行っていないのである。
それがために、
感性を原理とする東洋の文化は、
西洋の人々によって
充分に理解し得るものとはならず
西洋における東洋文化の移入は、
現在のところ、
表面的で形の上だけの、
単なる趣味的な段階に
終わっているのである。
感性を原理とする文化が、
具体的に理性を現実をする文化と、
どのように相異するのか、
どのように考え感じ行動する事が、
感性を原理とし、
実感や真実を重視する事に成るのか、
これ等の問題を
哲学的論理的に明らかにしなければ、
東洋の文化は、
西洋の人々の行き方を
実質的に実質的に変え得る思想としては、
決して受け入れられはしないし、
ひいては、
理性文明の行き詰まりを打開し、
世界人類を救済し得る新しい力には
なり得ないのである。
その意味で、
「感性の時代」の中で、
私が提案した「根元的統一の論理学」は、
東洋的精神、なかんずく、
日本的精神が内包する、
感性を原理とした哲学的論理を
西洋的概念を使って自覚化したものであり、
民族精神の普遍化によって生まれた世界的精神として、世界人類を導く、新しい指導原理と
なり得るものではないかと思うのである。
新しい時代は、
新たな理念と、
それを支える哲学的信念(論理)の確立ととも
始まるのである。
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この箇所と通じる所があるので
それも紹介しておく。
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155-156●
とにかく、
日本の文化が、西洋には見られない
「実体としての感性」、
「本質的存在としての感性」の上に
構築されていると言う発見は、
これからの世界文化の発展を考える上で
見逃せない重要な意味を提起することになるであろう。
ことに、観念論的考え方と唯物論的考え方とを
統一に導くことが、
現行の世界における
思想的・文化的・政治的最大の課題の1つである
とすればなおさらのことである。
今日までの日本人が、
このことに無自覚であったが故に、
我々は、
西洋的な考え方への追従から
原理的に脱し得なかったわけであるが、
今、世界を指導するブレーンの一角を
担い得た日本人は、
この日本文化の本質を
自らの魂として自覚化し、
日本精神の哲学として持つことによって
いたずらに
外国の考え方に振り回されることのない
自信と確信に満ちた国際人として、
世界へ雄飛することができるのではないかと考える。
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