フレーベルノート

以下のノートは、左記の本から抜粋させていただいたものです。

 

「フレーベルの生涯と思想」 庄司 雅子著  玉川教育新書

 

フレーベルにおける「神」や「神性」という言葉を

感性論哲学における「感性」に置き換えて読むと、

感性論哲学で言っている内容、言おうとしている内容に

余りにも似ているように思われてくるのです。

 

その上で、恩物における積み木の位置づけが

「○△□の経営」に共通するものがあり、

シンクロニシティを感じるものです。

 

そして、フレーベルの「人間教育」を

エンライトニング・イノベーションの参考にしたいと

考えています。


01  人間が「全体、すなわちただ1つにして、すべての無限な自然の中に住み、その中において、すべての個のもの、従ってまた人間がどのぐらいの価値があるかを、静かな諦観の中に観察し、予感する」これが宗教である。

02  「宇宙に対する感応と本能、直観と感情を持ち、無限の自然の胸に横たわり、そのすべての力と、無限の生命を、自己のそれと同様に感じ、無限の生きた自然の根本感情を胸中に抱き、世界の神的統一、永遠の不変、宇宙の調和と、その驚異すべき偉大な統一を見ること、世界の美を吸い込み、その精神に満たされるのを渇望すること、これがすなわち宗教である」と。

03  「宇宙の現象と行動を、敬虔に観照し、それに影響され、その驚くべき用意を観察し、その規模の壮大な関連を予感し、全体を導くその精神を推測し、予感し、発見し、世界霊を愛し、その作用を喜んで眺め、その規模の壮大な立派な法則による行動を追求し、その荘厳な自己啓示を認めること、これが宗教である」と。

04  「有限なものの中に、無限なものを見、無限なものの感情、意味及び趣味、無限なものへの憧憬と畏敬を持ち、無限なもの、永遠なものを一時的なものの中に把握する渇望と衝動を持ち、永遠な宇宙を観照し、世界中のすべての出来事を、その無限な全体との関係において把握し、目に見えないものを愛し、永遠なもの、目に見えないものへの心からの畏敬に満たされ、永遠の権力と叡智のの神聖な崇拝者であること、これが宗教である」と。

05 人間の本質に従い、人間の本質の実現に関する人間の要求、純人間的なものの要求、真の人間生活の要求並びに、特に教育と教授とか、またもや全くいきいきとした姿でいよいよ強く、私の魂に現れてきた。

06  私は全てを捨てて、全てを犠牲にして、人間へ、人間教育へ帰って行きたくてたまらず、また精神のうちに、そして精神を通じて直観され、明鏡におけるように、自然のうちにも認められた実在発展の法則を、人間教育のために、人間教育のうちに応用すること、すなわち、発展の法則に従って、人間の本質、人類の本質、従って、本質そのものの実現のうちに、その実現を通して、その実現のために、そしてその実現にまで、人間を教育するように引き返したくて、たまらなかった。

07  万物の中には、1つの永久不滅の法則が存在し、これが万物を生かし、かつこれを支配している。この法則は外界すなわち自然の中にも、内界すなわち神の中にも、また自然と精神を統一するもの、すなわち、人生の中にも同じように明らかに現れていたし、現に現れている。万物を支配するこの法則の根底には、すべてのものを動かし、それ自身において明白であり、生き生きとして永久に存在する統一者が必然的に存在している。この統一者とはすなわちである。万物はから生まれたものである。は万物の唯一の本源であって、万物の中に存在し、万物を生かし、かつ万物を支配している。

08  の創造による万物の生きた調和と統一において、は永遠の中心であり、霊的本質であり、生命の根源であると言っている。万物の生命はによって統一されているのである。

09  永遠不滅の法則とはのことである。すべては、の創造である。つまり、人間も自然もの創造である。したがって、宇宙は現在も創造しつつ、働き続けるの実在そのものであり、意志の現れである。

10  宇宙は1個の調和のとれた偉大な有機体であり、それは自然科学で言う法則に従って動いている。万物神性論。

11  鉱物・植物、動物・人間・天体等の全てに一貫して統一するものとして神性が働いている。

12  万物はによって作られたものであるから、の本性がそのもののうちに内在しており、このの本性、すなわち神性が万物の本質である。そして、万物の使命は、この本質であるそれぞれの神的なものを発展的に表現することである。すなわち、万物は自らのうちにある本質を外に具体的なもので明らかに表すものである。特に、人間の場合は他のものと違って、人間に特別な使命や天職がある。

13  知的な理性的なものとしての人間の特別な使命や職分は、人間の本質、人間の中にある神的なもの、つまり神性を、さらに人間の使命や職分そのものを、十分に意識し、生き生きと認識し、明らかに洞察すること、さらにそれを自己の決断と自由とで、自己の生活の中に実現し活動させ、明瞭にすることである。

14  人間の教育とは、このように意識したり、思考したり、認識したりする存在である人間を刺激し、指導し、それによって、人間が自らのうちに持っている内的な法則、すなわち神的なものを意識するようにさせ、それを自らの決断で、外に十分に表現し、純粋に完全に実現できる方法と手段等を示すことこそ、人間の教育である。それは必ず具体的なものを通しての活動であり、表現であることを意味している。自己活動の原理、労働や生産の原理。

15  教育の目的は、職分に忠実な、純粋な、無傷な、従って聖なる生活を実現することである。
教育とは、人間が意識と認識と思って、自由に生活し、自らの本質を外に十分に表現できるように導くことである。そのために、教育はまず人間を、神と自然と一致するように導くことにある。

16  自己活動の原理。自己活動とは、本来、人間自らの持っている本質を外に表そうとする活動であり、それは自らの興味と力とによって表現できる活動である。

17  教育や教授は、すべからく神性の働きに従って、人間本来の無傷な、健全な姿に立って行わなければならない。

18 必然性は自由を、法則は自己決定を、外からの強制は内からの自由意志を、外からの憎悪は内からの情愛を呼び起こすはずであり、またそうでなければならない。憎悪が憎悪を生み、法則が欺瞞と罪悪とを、強制が奴隷根性を、必然が盲従心を生むところでは、また圧迫が破壊と堕落を生じ、重荷が破滅と卑賤を招くところでは、さらに厳格と過酷と反抗と不実を生むところでは、すべての教育、すなわち教育や教授の働きはすべて破壊される。

19  真の教育や教育方法、そしてそれを行う教師は、生徒に対するすべての要求や命令はいつも、同時に両方の立場を取らなければならない。すなわち、「与え、かつ取る」という原理、「合一」と「分散」という原理である。つまり、一方では教師から積極的に働きかけ、他方では生徒からの言うことを受け入れる。生徒を規定すると同時に、生徒を解放すると言うように、教育は固定的でありながら、しかも可能的なものである。

20  汝の精神的な本質、したがって、汝の中に生きているもの、汝の生命を純粋に外的なものにおいて、また外的なものとして行為に表現せよ。そして、汝の本質が何を要求し、またそれがいかなる性質を持っているかを見よ。

21  まず子ども自身に行動するように導き、そして子ども自身にその行動を見つめさせ、それによって自己を知り、自己の力を知り、さらに自己の力を鍛えるように導かなければならない。

22  教師は、有限なものを無限の立場から考察し、無限なものを有限の立場から考察し、そして両者を人生において統一しなければならない。彼は、神的なものを人間的なものの中に認識し、直観し、そして人間の本質がの中にあることを証明し、そしてこの両者を相互に調和して、生活の中に表現するように努力しなければならない。

23  連続発展の原理。生涯教育に通じる考え方。一般に人間は、それぞれの発達段階において、全くその段階が要求するものに向かって努力する以外の努力をすべきではない。そうすれば、各の段階は、次から次へと健全な目から新しい枝が飛び出すように、すくすくと成長していくであろう。そして、この新しい枝は、それぞれの段階で同じ努力によって、その段階が要求することを完成するであろう。と言うのは、前の段階で十分に発達して、初めて次の段階の発達が十分に行われるからである。

24  人間の労働や生産的な活動は、より、精神的なもの、つまり、人間の本質に関わる根本的な概念である。と言うのは、人間の本質は神性であるからである。神性を本性とする人間は、と同じように創造し、働かなければならない。したがって、人間が労働したり創造したり、生産物をつくったりする事は、実は自己の本性、すなわち神性を表すことである。人間が生きていると言う事は、働くことであり、仕事をすることである。人間の使命とは自らのうちに決められている神性の行為を通して、労働によって表現することであり、神のように絶えず創造し生産し表現することである。

25  人間の日常の仕事や生産は、内的なものを外的にし、精神に形を与え、思想に構造を与え、見えないものを見えるようにし、永遠なものに現実の姿を与えることである。だから、私たちが何かを生産し、創造したとすれば、それは我々の内的なものを外部に表現したということでもあれば、また外的なもの、すなわち自然を内面化して、新しい意味を持たせようということでもあることになる。これが労働と勤労、仕事と創造の真の高い意味であり、深い価値あるものであり、大きな目的でもある。人間はこのように労働や生産によって神のようになるのである。そして、こうしてになることによって、真にを認識し、の本質を洞察することができる。労働と宗教の一致点はここにある。

26  勤労なき宗教、労働なき宗教は、空虚な夢、はかない幻、価値のない幻像に陥る危険がある。それは宗教なき労働や勤労が、人間を駄馬にし、機械にするのと同じである。労働と宗教とは全く同時的なものである。

27  人間は本来、ただ自分の内に秘められている精神、すなわち神性が外に形をとって現れ、それによって自己の本質を認識しようとするために労働し、創造するのである。これによって得られたパンや住まいや衣料は副次的なものである。それ故に、人々はそれぞれの場所と時と、地位と職業が要求する方法で、自己を表すことを学ばなければならない。これによって人は自分で自分の生活の道を安全に歩むことができる。

28 人間は本来、ただ自分の内に秘められている精神、すなわち神性が外に形をとって現れ、それによって自己の本質を認識しようとするために労働し、創造するのである。これによって得られたパンや住まいや衣料は副次的なものである。それ故に、人々はそれぞれの場所と時と、地位と職業が要求する方法で、自己を表すことを学ばなければならない。これによって人は自分で自分の生活の道を安全に歩むことができる。

29  どんな身分のものであろうと、どんな地位のものであろうとも、すべての幼児や少年や青年は、毎日、少なくとも1時間、また2時間は、ある一定の製作品を生産するために、真剣に活動するようにしなければならない。それは、作業を通してまた作業に関係する学習、すなわち生活による学習は、すべて印象強く、そして徹底的に理解しやすい学習であるからだ。しかもそれ自身、またそのような学習をするものにとっても、生き生きと発展し続けられる学習である。

30  現在の家庭教育も、学校教育も、子供たちを怠け者と仕事嫌いでと導いている。そのため、無限の素晴らしい人間の力は見発達のままにとどまっている。こうして素晴らしい人間の力は次第に失われていくのである。


32  フレーベルは、個人・家庭・社会・民族・人類の関係を「部分的全体」という言葉で説明している。「部分的全体」とは、個体はそれ自身として見れば一個の全体であるが、しかしそれは一段高い全体の一部分であると言うことである。我々人間は、一人ひとりを見たとき、それは完全なる全体であるが、実は人類の一部であり、人類の「部分的全体」が人間であると言うことになる。そしてこの限りにおいて、人間は人間になり、また全体的人間になるのである。人間は、子供の時、既に人類の必然的・本質的成長として理解され、認められ、そして育まれなければならない。

33  子どもの教育は、人類の発展に対する現在・過去及び未来の要求と結合し、調和し、一致しなければならない。神的素質と自然的素質と人間的素質を有する人間は、神と自然と人間とに関係し、統一性と個別性と多様性と自己の中に含み、それゆえに、同時にまた現在・過去及び未来を自らの中に秘めているものとして観察され、注意され、そして取り扱わなければならない。

34  一人ひとりの子どもが十分に個性を発揮すること、そして自己に起こってくる事柄を多様的に表現し、それを自己自身においてさらに統一するように表現できるようにすることが、心にその子どもの人生行路であり、親の子としても、家族の一員としても、全人類の一員としても、十分にその職分を果たすことになる。

35  フレーベルは、この統一的・個性的・多様的な表現を「三位一体的表現」と言っている。このように個性的に表現し、多様的に表現し、さらに統一的に表現するように導くことによって、初めて万物の正しい認識とその本質を洞察することができる。ここに私たちはフレーベルが教育を考察するに際して、人間をと自然とのつながりにおいて、考察しているだけではなくて、歴史的・社会的・地球的な立場に立って、考察していることを知ることができる。

36  親や教師は、常にことばと結びつけることである。そうすれば、幼児の力や能力を発達させることができる。また、描画とことばを結ぶようにすれば、子どの内外の力を高め、知識を増大し、判断の力を目覚ます。というのは、言葉と画とは、いつも相互に説明しあい、補う合うものである。フレーベルによれば、画というものは、もともとことばとものの中間に立つものであり、ことばとものとに共通した性質を持つものである。だから、描画は、教育手段として、また発達手段として幼児にとって、誠に重要なものである。真の描画は、ものの形や輪郭を表現しようとするものであるという点で、ものと共通している。それはまた、ものそのものではなくて、ものの模写に過ぎないという点で言葉と共通している。ことばと画とは、しかしまた、お互いに反対の性質を持っている。画と言ういうのは、死んだものであるが、ことばは生きているものであるからである。また画は見るものであるが、ことばは聞くものである。そのゆえに、ことばと画とは、光と影のように一体を成している。そのゆえに、描画の能力は、言語能力と同じように、直接、人間としての幼児に内在するものであり、言語能力と同様に、無条件にその発達を要求するものである。

37  幼児は画を描くこと、画によってものを表すこと、また表すことから、ものを観察することを覚える。それでだけではなくて、描くとき、幼児が必ず同じ種類のもので、しかも同じ数のものは、いっしょにすると言うことを覚える。例えば2つの目と2本の腕、5本の手指と5本の足指、甲虫の6本の足、ハエの6本の足と言うように。フレーベルは、幼児はこうしてものを描くことが、数の認識へ導かれると言っている。と言うのは、同一のものの何回かの繰り返しが、数の原因であるからである。この数の注意と認識によって、幼児に内在する数え方の能力が発達し、知識の範囲は広くなり、子供の生活の世界は広がるのである。

38  人間は精神的な存在であり、物質的な存在であるから、自分で考えたり、自覚したり、感じたりする立派な人間にならなければならない。私どもは知恵や知性で自分を高め、と人について深く悟り、によって作られたものの中に生活していることを知らなければならない。このような知識を人間に与えることこそが、学校の役割であり、ここにこそ学校と教授が必要である。教授の仕事は知識の仕事である。一定の目的を持って、事物の内的関係に関する知識を、意識的に伝えるところ、それがすなわち、学校である。しかし、実際には、家庭や社会ではこのような目的を充分果たすことができない。そこで特定の学校が必要である。
学校の目的は、生徒に自分自身及び、事物の外部の性質と内部の生命とを明らかに知らせるように努力する機関である。また、事物と事物との関係、事物と人間及び生徒との関係、事物と神との関係を生徒に教え、意識させようと努力するところである。また、子どもが家族的な秩序の知識からより高い世界的秩序の知識に進めるようにすることこそ、少年を生徒たらしめるのである。

39  学校を学校たらしめ、教室を教室たらしめるものは、ただ一つの精神である。多様なものや多数なものを、そのものとして教えたり伝えたりすることが、学校を学校たらしめるものではなくて、あらゆる事物に内在し、永遠に生きている一なるものをあらわにさせることこそが、学校学校たらしめるものであることを決して忘れてはならない。学校の教師は現在極めてたくさんいるが、真の学校の先生は誠に少ないのである。教える施設は極めて多いが、真の学校と言われ得るものは、誠に少ないのである。
今まで述べてきた開発的な教育の方法や教授法で、子どもは今や自分の内にある独立的な精神的自我を、自分で予感するようになり、少年は自分を1つの精神的全体であると感じ、またこれを知ることができた。

40  フレーベルは、人間と人類との関係を「部分的全体」という語で説明している。部分的全体とは個体はそれ自身として見れば1つの全体であるが、しかし、それは一段高い全体の一部分であると言うのである。人間は、生命全体の一部分であり、人類の「部分的全体」が人間である。そして、この限りにおいて人間は人間になり、また全体的人間になる。人間は宇宙全体を構成する成員であると、同時に、1人の人間は、それ自体全体であり、人類の「部分的全体」である。だから、人間一人ひとりは、幼児の時から、人類の本質的な成員として認められ、育まれなければならない。

41  の素質と、自然の素質と、人間の素質とを持っている人間は、と自然とに関係し、同時に統一性と単一性と多様性と自らのうちに含み、また現在・過去及び未来を自らのうちに持っているものと観察され、注意され、そして取り扱われなければならない。

42  この世における生命あるものの生きる目的は、生命に従って生きることである。だから、人間は自らのうちにある人間の本質に従って生活する時、初めて真の意味での幸福を得ることができる。人間を真の意味で幸福にしようとするならば、我々人間を人間の本質に従って生きるように導くことである。しかも、この世に生きている全ての生命あるものは、自ら発展しなければならない。発展することがすなわち生命であり、静止は死を意味する。そして、一人ひとりの人間の理性に従って発展する生命は、そこに真の自由を得ている。それは自らの生命の発展をより良く、生活させるための制止や促進を自由につかさどることができるからである。

43  すべては統一である。すべては統一に基づき、統一から出発し、統一に向かって努力し、統一に至り、そして統一に還る。統一におけるこの努力と統一に向かっての努力とは、人間におけるすべての現象の基礎である。

44  それは生命である。生命こそは人間性を、汝のうちに、純粋に完全に生き生ける全体として表現させ、また十分に明らかに、汝の外に顕現させるものなのである。

45  私は1人の人間として完全な全体であるが、全体の人類から見れば、私はその部分である。だから、私自身、唯一のものであるが、しかし、孤立しているものではない。私の内には全体の生命が宿っており、しかもそれが私の本質をなしている。だから、私の最も内に秘められている万有の生命を、私が外部に表現できるようにすることが私の使命である。

46  人間よ、あなたの人間性を自覚するようになるということより、他に、もっと崇高なことを望むことが、あなたに許されるだろうか。ところが、もしも人間が、自分自身を十分に完全に自覚しようとするならば、人間は自分を神性としてより、他には自覚することはできない。そうだ、私自身がまず、自らをこのように自覚しなければならない。このように自覚することなしには、私は私自身の自我を自覚することはできず、したがって、自分自身を完全に自覚することはできないであろう。このように次第に人間性のうちに神性を自覚していくこと、これがまた私の使命であり、私の天職である。それだけでなく、それが人間性としての、私の生命である。そして、このように人間性を神性として自覚するようになることが、私の新しい生命の兆しであり、生命の革新であり、新しい人生の春である。

47  フレーベルは、家庭がその偉大な使命を果たすための最も必要とされる条件として、土地、すなわち祖国を待たなくてはならない、としている。そして「その祖国の部分的全体」とならなければならないことを強調している。次に家庭が人間性の形成に努力し、その使命を果たすための条件は、その人間が人類の部分的全体であるということである。すべての家庭は、同じ使命を持ち、行動や思考において、また話や言葉において、共通なものを持っていなければいけない。さらに、理想的な形としては、家庭は互いに独立しておりながら、1つのより高い生命全体に結び合わされたものとして、全く同一の生命統一、同一の生命目標、同一の生命目的を承認し、同一の生命法則、同一の生命規定に従うものでなければならない。そして、この生命統一に従い、自らの意志を持って、自らの使命を達成するために、努力している人間の集団を民族と呼ぶことができる。

48  フレーベルは、国家も憲法も人間の使命を果たさせることを目的としなければならないと言っている。

49  家庭の革新を目指す。

50  3つの生き方。①この生活に服従することを忍ぶか。②それを次第に改良して、できるだけ自らの目的に叶う方向へ導いていくか。③それとも最後には、明晰な洞察力と思考力、自由な意思と固い決心、そして勇気ある行動を持って、この生活から抜け出して至るところ、それはまるで春風が訪れたように、新しい若々しい生命力に溢れた生活の中に移るか。
第3の道。それは純粋な本質と意志を持ち、明晰な洞察力と思考力とに従い、力強い勇敢な実行力で、理想とする新しい生活を、自らの力によって、自分自身で創造し、生み出していくのである。
この第3の目的を実際に実現するためには、さらに次の2つの方法がある。第一の方法は、この新たな生活は、現在生活している場所において実行していくこと。第二の方法は、現在生活している場所や、境遇にある障害から完全に離れることである。そして、たとえ違う場所に移ってもまたしても同じような困難な情状や障害が生じるかもしれない。しかし、そのようなときには、神と人間と自然と一体として結合し、調和することができるように努力をするならば、これらの好ましくない状況を完全に克服することができるであろう。
第二の方法は創造的であり、積極的なしかも勇気ある行動を求めている。この第二の方法は、現在の環境を逃れ、より良い環境に身を移すために、私たちの持っている最高の力を必要とするが、それだけではなくて、新しい環境を造り出すこと、それは人間としての生命を純粋に表現すると言う、最高の目標に向かって実行していくためにも、私たちの持てる力により、最高の努力を必要とするのである。純粋な人となるための生命の統一が実行され、同一人としての民族的生命の充実を図るためには、これら2つの方法のうち、どちらをとっても良い。あるいは2つを同時にとっても良い。しかし、この2つの方法に共通している事は、現在私たちの行っている平凡な日常生活の状態から離れること、あるいは全く外部に出ることが必要である。
第二の方法とは、移住することである。それでは移住するとは、どんな意味を持つのであろうか。移住するとは、人間としての生命を純粋に表現するために、それに都合の悪い社会的風土的、あるいは国家の境遇から逃れて、最も適した状態のところに身を移すことである。そのために個人や家族の移住は、時に国家や土地や、その社会的な関係を考慮することが必要である。祖国移住の原理。

51 移住のための条件。

52  生命の新生。移住しようとするものや、既に移住しているものはあらゆる点において、新しく妊娠し、新しく生まれようとし、新しく生まれた子どもと同じようなものである。子どもというものは、一定の単純で、明解な生命法則を自らの内に持っていて、この生命法則をその成長の場に、またその生活を通して客観的に、映像のように自らを外に表すものである。これと同じように移住しようとする人間及び移住している人間自身も、また移住者としての自らの意志や自らの欲望や、自らの努力を、自分自身で客観的に、映像のように、生命の法則に従って自らを明らかにすべきである。このための法則とは、
①人間であること、・自然及び人類に対する自らの本質及び関係において、人間であること、人間であろうと良くすること。②人間となること、人間であろうと願うこと、すなわち人間として自らの本質及び関係において発展させること。したがって、自らの地上の存在として、自然との関係において捉え、人間として人間性に対する関係において捉え、被造物として、すべての生命の根源であるとの関係において捉えるということ。③人間として生きること。すなわち、公明正大に真実に、かつ明らかに感じつつ、思考しつつ、行動すること。それだから、自らの研究、自然の研究、神の研究に献身的に生きること。つまり、三位一体的に神と1つとなり、自然と調和し、また自らの内部に統一を持ち、人類の部分的全体として生きることである。

53  この学園の目的は、まず、第一に、人生の真理を直感的に表現すること、第二に、あらゆる事物を直感的に表現すること、第3に有限なものにおける、無限なもの、肉体的なものにおける精神的なもの、地上的なものにおける天上的なものを直感的に表現すること、しかし特に特別な課題としては、生命法則を直感的に表現することであった。彼のこの教育思想を現実に表現し、実践し目的を達成するためには、既成の材料によっては不可能であった。そこで彼は全く創造による新しい材料を通してのみ、そして自己陶冶することによってのみ、可能であることを考えた。フレーベルによれば「精神が自己表現によって自覚するには材料を必要とする。精神は材料通してのみ自己を表現することができ、また材料を加工することによってのみ、発展することができるからである。だから、幼児教育には、精神を形成させるための適当な材料を与えねばならない」

54  フレーベルは、幼児教育にとって最も必要とされるものは、まず適当な遊具を与えることから出発しなければならないと考えた。この遊具を彼は「恩物」と彼自身が命名した。

55  フレーベルの言うは、あくまでも創造的な実在であり、の各々の思想はそれ自身1つの仕事であり、1つの行為であり、生産そのものである。は自らの永遠な行為を通して、絶え間ない創造を通して、の意志を私たちに知らせ、の本質を私たちに掲示している。

56  フレーベルは、幼児の自発的な生命表現は、すべての根源的なもの、内面的なもの、精神的なものと深い関連を持っていることを私たちに示している。
  幼児の心の人間的な発展に対して行われる事柄、また、幼児のあらゆる興味と欲求に対して、満足できるような教育を行うための一切の事柄、それは作業衝動の保育であり、最初の幼児のあらゆる作業に結合したものであり、そこから現れてくるものでなければならない。

57  作業衝動は、フレーベルによれば、人間の三位一体的な創造的な活動、すなわち、行動し、知覚し、思考する3つの働きが一体をなしているからである。

58  私たちは、この作業衝動を通して、人間全体を把握し、幼児のうちの全人間性や生命そのものを理解することができる。人類のあらゆる文化も、その根源を尋ねてみれば、幼児期のこうした作業衝動に、その端を発していることを知れば、フレーベルの幼児の活動衝動や作業衝動の保育を実践した事は、誠に卓越した識見ということができる。しかも、そこに私たちは、教育史上におけるフレーベルの独自な位置を認めることができる。特に、彼がこれらの活動衝動や作業衝動を育む手段として考案した恩物などは、全く教育史上のいかなる教育学者も、到底追従することのできないフレーベル固有のものである。

59  幼児の活動衝動や作業衝動は、遊びや作業として現れている。ただ、幼児の遊びや作業は、ただ身体や手足や感覚を育て、強くするだけではなくて、心情の発展や、精神の塔や、内的感覚を目覚めさせ、促進するものである。特にフレーベルは遊びや作業の持っている内面的な精神的な意義に重点を置いている。フレーベルはさらに次のように言っている。「もし私たちが幼児たちを精神的にも身体的にも堕落させたくないならば、またもし現在の子どもらしい生活、次代の青年らしい生活、未来の市民的生活、将来の家庭生活ないし、人類としての全生活を歪めないようにするためには、私たちは、幼児たちの要求や、彼らの本来の本質の要求に忠実に従って、幼児を教育しなければならない。また、宇宙の発展、及び宇宙生命によって制約され、そこから現れてくる人類の発展の現段階との調和と関連によって、幼児を教育しなければならない。

60  では、そこから何かを作り出せるような、創造的な要素を多く、持っている遊具とは、どんな遊具であろうか。それは決して、複雑なものや完成された既成品ではなく、むしろ単純な基本的な形であって、しかもその単純なうちにも多様なものを含んでおり、基本的なものの中に創造していくのに、なくてはならない要素としての論理的な、数理的な契機を含んでいる形でなければならない。このような遊具であると、幼児はそこからあらゆるものを作り出すことができる。そこでフレーベルは、幼児の自己活動や創造衝動を目覚めさせるために、既成品ではなく、まず単一な材料を与えた、それによって、幼児から自ら形成し、創作することができるようにさせたのである。このようにフレーベルは、幼児のあののような創造的な創造衝動や、創造力の萌芽を立派に伸ばし、その完全な発達を助ける理想的な遊具の考案に努力した。そして、彼の類い稀な天才を傾けて、制作した遊具がすなわち恩物である。

61  恩物とは、言うまでもなく、からの恩賜物のことである。フレーベル教育学の中心は、何よりも自然を通して、人間にを知らせ、を知らせることによって、人間がのように生きること、すなわちのように絶えず創造し、生産するようにするところにある。しかも、のように生き、のように創造する能力の萌芽は、既に生まれたばかりの幼児に与えられているとフレーベルは見ている。教育はただこの萌芽を発展させれば良いのであるが、それには理想的な遊具を考えなければならない。その遊具を通して、幼児は自然や自然の法則を知り、自然の創造主を予感し、の働きを知り、やがて自らを知る。だから、その遊具はの働きを知らせ、宇宙の法則を知らせるために、の賜る贈り物であると言うことになる。

62  フレーベルの恩物の目的とするところの第1の基本的な原理は、まず子どもにの働きを知らせること、のように創造すること、子どもの創造力を呼び起こすことにある。それは幼児が自分の本性に従い、自由に自己活動的に取り扱い得るようなものでなくてはならない。第2の基本的な原理は、次に来る遊びの芽生えが既に前の遊びの中に含まれていなければならない、ということである。そうすれば、幼児の活動は飛躍することなく、連続的に発展できる。第3の基本的な原理は、幼児のいろいろな能力がその時鍛えられることである。認識能力はもちろんのこと、心情や意思も同時に訓練されるのである。フレーベルの恩物の中には、一と多、部分と全体、雑多と統一等の諸原理が含まれ、かつ統一され、これを実際に扱うことにより、3つの基本的な原理に沿った形式、すなわち認識の形式、美の形式、生活の形式を表現することができる。

63 第1恩物。青・緑・黄・橙・紅・紫の6色の毛糸でできた直径6センチの6個のボールである。フレーベルが最初に作ったものは乳児期の幼児のためのもので、それは直径3.5センチから4.5センチのものであった。このボールには手に持って遊ばせるのにちょうど良い位の長さの同色の紐が付いている。この6色は虹の7色から撮ったものでフレーベルによれば、それは最高の平和、天地間の平和、神と人との間の平和の象徴であり、美の統一を表す色である。ボールは最も完全な1個の全体であり、宇宙の全ての形の家うちで、最も単純で、どの方向から見ても、常に同じである。また、ボールの形はそれ自身完全と統一と均整の原理を持ち、万物の基本的な形態として、宇宙そのものを象徴する。それは自然界においては、地球・太陽・月・星などの形の象徴であり、精神的には円満な人格とか、人間の理想を象徴する。
第2恩物。直径6センチの球と円筒と、一辺6センチの立方体の3つが1組になっており、いずれも木製でできている。以上の3体には、金属製の金具が付いていて、それに紐を通して回転遊びをすることもできる。そのために棒2本と枠1本を入れる箱と、その蓋に棒を立てる穴が空いている。第2恩物は、第1恩物で学んだ毛糸のボールを木製にすることによって、より完全に近い形を教えることができる。そして、球は局面と曲線を持っているから、事物の動的な性質を代表するが、立方体は6つの平面で囲まれ、常に静止しているので、静的な事物の性質を代表する。円筒は、両者の性質、つまり、動的なものと静的なものをを共有していて、この両者の性質を持っている事物の性質を代表する。こうして9と円筒と立方体とは、本質的には三位一体的なものとして、それは調和と言う理念を最もよく表している。しかもこの調和の理念こそ、自然と人類との融合するものであり、万物に働きかけて1個の生命を創造するものである。この理念は、人間においては、まず自分自身を、次には、個人と個人の相互関係を、そして家族を、いっそう広く、社会生活や民族生活を知らせ、人類の中に1つの美しい調和のあることを感知させようとしている。
第3恩物。第2恩物の立方体と同じ大きさの立方体を、縦、横、上下各1度ずつ切って作られた3センチ立方の8個の小立方体である。全体を1個の立方体として認識し、直観すること、統一性の中に雑多性を、単一性の中に多様性を見る。その他、数、そして形の要素である面と線と点を認識することができる。また大きいとか小さいとか、多いとか少ないとかいうことも遊びながら会得できる。幼児はバラバラになったものを1つにしようとし、1つにしたものを分解しようとする。これは幼児の創造的な生命の要求であり、建設と破壊、統一と分離を急速に交代できるところに、幼児に大きな喜びを与える遊具として、幼児に最も適し、彼らの発達に必要な遊具である。また、恩物の遊戯を通して、幼児の思考力や想像力、数の観念や美の感情を養い、自己活動を活発にして、創作力を自由に伸ばさせ、感情を美化することができる。
第4恩物。第3恩物と同じ大きさの立方体を用いて、これを縦に1度、上下に3度切って作られた6センチ、3センチ、 15センチの3辺を持つ8個の長方体である。第3恩物で建築や美術模様など、複雑な遊びを経験した幼児に、次に与えるものとして、幼児がこれまで親しんできた立方体を用い、切り方を変えることによって、長方体の部分を作った。そのことによって全体は立方体であるが、部分は長方体であり、長方体は3つの異なる面を持っているという、第3恩物よりも形の複雑さを発見することができる。したがって、第3恩物より、建築遊びも、美術模様も一段と複雑なものを作ることができる。これはだから、幼児が心身の発達につれて、その要求も次第に広く複雑になり、思考力や想像力も著しくなるので、それに応じた必要な遊具である。
第5恩物。第3恩物から発展したものであって、6センチの立方体に縦や横や高さに、それぞれ3センチを加えた9センチの立方体である。これを縦と横と上下と2度ずつ切って、一片3センチの27個の小立方体に分割したものである。さらにそのうちの3個は対角線に一度切って、小立方体の2分の1の6個の大三角柱を作り、他の3個は両対角線を切って、12個の小三角柱を作り、全部で39個の部分からできている。
このように立方体の数が多くなり、三角形の形が増えたということから、第3恩物より一段と進歩した遊具と言える。これまでの恩物は垂直線と水平線であったが、これはまっすぐと言う点では共通であっても、しかし、互いに相互的なものであり、これを媒介するものとして、斜線が要求されたのである。それによって三角形が生まれたのである。フレーベルは既に経験したものを元として、そのものを理解しながら、新しい経験へと進み、恩物を次第に分解的に複雑にしてきたのである。幼児は第5恩物において、正方面、長方面、三角面、直角、鋭角、鈍角などものの形に含まれている異なった要素を経験する。これらの積み木で幼児が建築遊びをしても、重みや長さや高さ及び厚さ十分加わり、いろいろな面や角を用いることによってより、実際に近い建築や美しい複雑な模様を作ることができる。これはまた幼児の美の感情と、想像力や知的能力を一段と発展させるのにふさわしい遊具である。

64 さぁ、私たちの子どもらに、生きようではないか!