フレーベル資料


●フレーベル
・感性論哲学との整合性
・宇宙、自然、人間の関係づけ
・易との関係
・教育学習遊具という言葉、恩物
・キンダーガルテン、アダルトガルテン
フレーベルは、人間の本質を神的なものとみ、その本質を地上における自らの生活の中に積極的に表すことが人間の使命であると言い、この使命を十分に果たせるように導き、また目標を示すことが教育であると言っている。136p
フレーベルによれば、人間は他の動物と違って、人間のみに与えられている独自の能力を有し、その能力によって、自らの存在、すなわち自己を認識することができる。しかも、自己を認識する事は、人間が自らを神に向かって最も高く、最も完全に高めると言うことである。人間の特殊の天分は、すべての他の被造物と同じに持っている能力のほかに、このように自らを認識すると言う働きの中に自らが存在していると言うことである。
一般に、人間は、自らの本源的な本質を認識することによって、初めて自らの「最も内的な天職」を発見することができる。しかも、人間がこのような目標に向かって努力する場合は、すべて自己決定と自由とによるのであって、決して上からの権威や強制によるものではない。このように、人間の本文は、明瞭な自己認識への絶え間ない努力にあると言ってよい。
フレーベルは、「人間教育」の中で次のように述べている。「知的な理性的な生類としての人間の特殊な本分や、特殊な職分は、自己の本性、すなわち、自己の人生を十分に意識し、生き生きと認識し、明らかに洞察し、しかも自己決定と自由とをもって自己の生活の中に顕現し、活動させ、明瞭にすることである。」137p
この人間におけるメンシュハイトは、決して固定したものではなくて、絶え間なく発展する生成物であり、自己発展的なものであり、永遠に生き生きしたものであり、発展の1段階から他の段階へと進んで、無限性と永遠性とのうちにある目標に向かって努力するものである。138p
フレーベルは、人間と人類との関係を「部分的全体」という語で説明している。部分的全体とは個体はそれ自身としてみれば一つの全体であるが、しかしそれは一段高い全体の一部分であるというのである。人間は、生命全体の一部分で、人類の「部分的全体」が人間である。そしてこの限りにおいて、人間は人間になり、また全体的人間になる。人間は宇宙全体を構成する成員であると同時に、一人の人間はそれ自体全体で、人類の「部分的全体」である。だから、人間一人一人は幼児の時から人類の本質的な成果として認められ、育まれなければならない。フレーベルは、既に「人間教育」の中で言っている。「神の素質と、自然の素質と、人間の素質とをもっている人間は、神と自然とに関係し、同時に統一性と単一性と多様性とを自らのうちに含み、また、現在及び未来を自らのうちに持っているものと観察され、注意され、そして取り扱わなければならない」。人間性に対するこの強い確認がフレーベルの世界観を作り、ついに彼は自ら作り上げた崇高にして、偉大な理念の信奉者となった。139p
フレーベルによれば、この世にあって思想を超えるほどの偉大な権力は存在しない。しかし、その思想を形成するためには、まず、宇宙の法則、すなわち、物理的な意味における宇宙を理解するのではなく、万物の創造主の司る、宇宙の法則、万有の統一を理解しなければならない。一人ひとりの人間はイデーよって支配されているということ、また、物理的現実は全て思想の現実化であるということを認識しなければならない。
この世における生命あるものの生きる目的は、生命に従って生きることである。だから、人間は自らのうちにある人間の本質に従って生活する時、初めて真の意味での幸福を得ることができる。人間を真の意味で幸福にしようとするならば、われわれは、人間を人間の本質に従って生きるように導くことである。しかも、この世に生きているすべての生命あるものは、自ら発展しなければならない。発展することが、すなわち、生命であり、静止は死を意味する。そして、一人ひとりの人間の理性に従って発展する生命は、そこに真の自由を得ている。それは自らの生命の発展をより良く生活させるための制止や促進を自由に司ることができるからである。
フレーベル学者プリューファーは、これについて次のように述べているが、それは正しいと思う。「フレーベルの教育学は何ら空漠たる想像の構成物ではなくて、あくまでも確固たる基礎、すなわち、存在と思考、生命と実在との正確な認識の上に立脚し、全自然と全人類とを包括し、私たちがドイツの神、キリスト教の父なる神と呼ぶところの生命の源であり、光であり、愛である偉大な力で満たされている。だから、フレーベルの教育法の過程と手段とは、非常に確実なものであり、自然の道や法則と確実に一致する」。142p
生活をしていくために必要な技術を身に付けるのでもなければ、この世の知識を頭に詰め込むためでもなく、もっぱら、真の人間の育成、それは、本来、人間に内在している生命の発展、詳しく言えば、人間における神的なもの、精神的なものの発展であった。144p
「すべては統一である。すべては統一に基づき、統一から出発し、統一に向かって努力し、統一にいたり、そして統一に還る。統一におけるこの努力と統一に向かっての努力とは、人間におけるすべての現象の基礎である」。144p
自然におけるすべての生命は、互いに相異なっているように見えるが、その基をたどってみる時、唯一の本源から生まれたものであり、その基においては、すべて同一であることを意味している。145p
フレーベルは、まず、神と人との間に生命統一を認め、教育の目的は、一人ひとりの人間にこの生命統一を自覚させることにあった。145p
また、彼によると、人間は宇宙を支配する絶対的な統一を認識することができる。それは人間は、この統一の認識を持ったとき、真の意味での様々な現象の多様性を認識することができる。このような統一の認識は、いわゆる肉眼を持って可能となることではなく、心眼を持ってのみ直観することができる。そしてこの心眼こそ、人間のみが持っている唯一絶対のものである。フレーベルは、人間の子の心がに対して絶対的な信念を持っていた。この信念を持っているからこそ、彼は人間こそこの統一を認識することができると言えたのである。人間のみがこの信念を持っていると見るところにフレーベルの意味する人間性の尊厳さが感じられる。
このような思想を基礎としてフレーベルは人間の本質と人間の教育と考えた。そして、このような人間性をはぐくみ、真に伸ばすことを、フレーベルは自分に課せられた教育的使命と考えていた。146p
さて、人間が完全な人間となり、また完全な人間として生きようとさせるものは何か、フレーベルは答えて、それは生命である。生命こそが、人間性を汝のうちに純粋に完全に生ける全体として表現させ、また十分に明らかに汝の外に顕現させるものなのである」と言っている。
149p
私はひとりの人間として完全な全体であるが、全体の人類から見れば、私はその部分である。だから、私自身、唯一のものであれば、しかし孤立しているものではない。私のうちには、全体の生命が宿って、しかもそれが私の本質をなしている。だから、私の最もうちに決められている万有の生命を、私が外部に表現できるようにすることが私の使命である」。150p
純粋な家庭生活を営めば、人間はこの高い目的に到達することができるのである。人間の純粋な生存は、全く家庭の中においてのみ行われるのである。家庭で生命を革新し、生命を更新することができるのである。そのために家庭はどのような条件を備える必要があるであろうか。まず第一に家庭をつくっている夫婦が真の夫婦であることが必要である。真の夫婦であって、初めて真の両親となり、真の両親であって、初めて、完全な人間性を表すことができる。153p
フレーベルにおける神や神性の捉え方は、感性論哲学における感性の捉え方に大変近いものを感じるものである。そのような考えの下に作られたのが「恩物」であることを考えれば、その「恩物」についてもう少し掘り下げておく必要があるだろう。
また、教育のための玩具として「恩物」(おんぶつ、ドイツ語=Spielgabe、英語=Froebel Gifts)を開発したことでも知られる。これは、球や立方体などの数学的な原理の学習や生活の周囲にあるものをそれで表現して遊ぶもので、教育玩具の始まりをなすものといってもいい。国内のいくつかの幼稚園では、これを幼児教育に積極的に活用しているところがある。アメリカの著名な建築家、フランク・ロイド・ライトは、自分の建築がこの恩物の影響を受けたものだと語っているし、またバウハウスの発想やその教育にも影響を及ぼした。
フレーベル教育を象徴するのが積み木です。子どもが自然の仕組みに親しみながら学べるように、「恩物」と呼ばれる特殊な積み木を使います。
恩物は「第一恩物」から「第十恩物」まであり、その形は単なる積み木から複雑なものまで恩物によって違いがあります。
例えば、「球」「円柱」「三角柱」「立方体」「直方体」など幾何学的なフォルムに、糸や棒がついていたり、カラフルに色が塗られたりなど様々です。
恩物にある唯一の共通点は、子どもの好奇心をかき立て、創造力を高める仕様になっている点になります。
また、恩物を使った遊びでは積み木で遊んだ後の片付けをさせない点がユニークです。フレーベル教育では完成途中のままにしておき、子どもに継続して取り組ませることで集中力を養えると考えています。
生命の根本法則
1ー人間であること、神・自然および、人類対する自らの本質及び関係において、人間であること、人間であろうと欲すること
2ー人間となること、人間であろうと願うこと、すなわち、人間として、自らの本質及び関係において発展させること。したがって、自らを地上の存在として、自然との関係において捉え、人間として人間性に対する関係において捉え、被造物として、すべての生命の根源である神との関係においてとらえるということ。
3ー人間として生きること。すなわち、公明正大に真実に、かつ明らかに感じつつ、思考しつつ行動すること。それだから、自らの研究、自然の研究、神の研究、に献身的に生きること。つまり、三位一体的に神と1つとなり、自然と調和し、また自らの内部に統一を持ち、人類の部分的全体として生きることである。176p
学園の目的
①人生の真理を直感的に表現すること。
②あらゆる事物を直感的に表現すること。
③有限なものにおける無限なるもの、肉体的なものにおける精神的なもの、地上的なものにおける天上的なものを直感的に表現すること。
精神が自己表現によって自覚するには材料を必要とする。精神は材料を通してのみ自己を表現することができ、また材料を加工することによってのみ、発展することができるからである。だから幼児教育には精神を形成させるための適当な材料を与えねばならない。
この材料こそがフレーベルが「恩物」と名づけたものだった。
作業衝動はフレーベルによれば、人間の三位一体的な創造的な活動、すなわち行動し、知覚し、思考する3つの働きが一体をなしているからである。
それ(恩物)は決して複雑なものや完成された既製品ではなく、むしろ単純な基本的な形であってしかも単純なうちにも多様なものを含んでおり、基本的なもののなかに創造していくのになくてはならない要素としての論理的な、数理的な契機を含んでいる形でなければならない。
恩物とは神からの恩賜物のことである。フレーベルの恩物の目的とするところの基本的な原理
①子どもに神の働きを知らせること、神のように創造すること、子どもの創造力を呼び起こすことにある。
②次にくる遊びの芽生えがすでに前の遊びのなかに含まれていなければならない、ということ。
③幼児のいろいろな能力がその時鍛えられることである。
フレーベルの恩物のなかには、一と多、部分と全体、雑多と統一などの諸原理が含まれ、且つ統一され、これを実際に扱うことにより、3つの基本的な原理に添った形式、すなわち認識の形式、美の形式、生活の形式を表現することができる。
恩物1ー毛糸の色玉
恩物2ー球、円筒、立方体。回転用金具付き。
・球は曲面と曲線を持っているから、事物の動的な性質を代表するが、立方体は3つの平面で囲まれ、常に静止しているので、静的な事物の性質を代表する。円筒は両者の性質、つまり、動的なものと静的なものを共有していて、この両者の性質を持っている事物の性質を代表する。こうして球と円筒と立方体とは、本質的には三位一体的なものとして、それは調和という理念を最もよく表している。しかも、この調和の理念こそ、自然と人類との融合するものであり、万物に働きかけて一個の生命を創造するものである。この理念は、人間においては、まず、自分自身を、次には個人と個人の相互関係を、そして家族を、一層広く、社会生活や民族生活を知らせ、人類の中に1つの美しい調和のあることを感知させようとしている。196p
恩物3ー第二恩物の立方体のバリエーション。第二恩物の立方体と同じ大きさの立方体を、縦、横、上下各1度ずつ切って作られた3センチ立方の8個の小立方体である。全体を1個の立方体として認識し、直感すること、統一性の中に雑多性を、単一性の中に多様性を見る。その他、数、そして形の要素である面と線と点を認識することができる。また、大きいとか小さいとか、多いとか少ないとかと言うことも遊びながら会得できる。幼児はバラバラになったものをひとつにしようとし、ひとつにしたものを分解しようとする。これは幼児の創造的な生命の要求であり、建設と破壊、統一と分離を急速に交代できるところに、幼児に大きな喜びを与える遊具として、幼児に最も適し、彼らの発達に必要な遊具である。また、恩物の遊戯を通して、幼児の思考力や想像力、数の観念や美の感情を養い、自己活動を活発にして、創作力を自由に伸ばさせ、感情を美化することができる。197p
恩物4ー第3 恩物と同じ大きさの立方体を用いて、これを縦に1度、上下に3度切って作られた6センチ、3センチ、1.5センチの3辺を持つ8個の長方体である。第3恩物で建築や美術模様など、複雑な遊びを経験した幼児に、次に与えるものとして、幼児がこれまで親しんできた立方体を用い、切り方を変えることによって長方体の部分を作った。そのことによって全体は立方体であるが、部分は長方体であり、長方体は3つの異なる面を持っているという第3恩物よりも形の複雑さを発見することができる。したがって、第3恩物より、建築遊びも、美術模様も一段と複雑なものを作ることができる。これはだから、幼児が心身の発達につれて、その要求も、次第に広く複雑になり、思考力や想像力も著しくなるので、それに応じた必要な遊具である。197p
恩物5ー第3本物から発展したものであって、6センチの立方体に縦や横や高さに、それぞれ3センチを加えた9センチの立方体である。これを縦と横と上下に2度ずつ切って、一辺3センチの27個の立方体に分割したものである。さらに、そのうちの3個は対角線に一度切って、小立方体の2分の1の6個の大三角柱を作り、他の3個は両対角線を切って、12個の小三角柱を作り、全部で39個の部分からできている。このように立方体の数が多くなり、三角形の数が増えたということから、第3恩物より一段と進歩した遊具と言える。これまでの恩物は、垂直線と、水平線であったが、これはまっすぐという点では共通であっても、しかし互いに相補的なものであり、これを媒介するものとして、斜線が要求されたのである。それによって三角形が生まれたのである。フレーベルは既に経験したものを基として、そのものを理解しながら新しい経験へと進み、恩物を次第に分解的に複雑にしてきたのである。幼児は、第5恩物において、正方面、長方面、三角面、直角、鋭角、鈍角などの物の形に含まれている異なった要素を経験する。これらの積み木で幼児が建築遊びをしても、重みや長さや高さ及び厚さが十分加わり、いろいろな面や角を用いることによってより実際に近い建築や美しい複雑な模様を作ることができる。これはまた幼児の美の感情と、創造力や知的能力を一段と発展させるのにふさわしい遊具である。ただ、この遊具の取り扱いについて、特に注意すべき事は、使用後の始末である。順序に従って箱に収め、常に使い始めるときは、全体の姿から遊びを始めることが大切である。というのは、全体を構成している部分は、その全体に属し、そのうちにおいて自らを表し、自らの個性を発揮することによって、全体に参加するのでなくてはならないからである。フレーベルの恩物は、幼児にこのことを教えるところにその独自性がある。198p
恩物6
恩物で表しているものと似ていると感じられるのが、易経の世界である。「変化の書」とも言われている易経の「易」には三義あり、「易」「不易」「簡易」とし、その表すところは、天地自然、森羅万象、過去・現在・未来と言われている。
 私が以前から求めていた動的経営のコミュニケーションの在り方に通じるものである。「経営とは、生きて動いて変化しているもの同士の関わり合いであり、その関わり合いそのものを表現することはできないものか?」。
 そして、私が関心のあるとともにクライアントが真に求めているのは、「この先、いかに進むべきか、止まるべきか、退くべきか」であり、「次の一手は?」であり、「個人の、組織の使命の達成に資するか否か?」「幸せに近づけるか否か?」である。その答えに近づけるものなら科学的、哲学的、宗教的、スピリチュアル的であれ、何でもいいのである。その中でも哲学を主として進めてきたが、最新の科学や量子物理学の成果からすると、すべてが学際的に統合融合してきている観がある。
そのような中で、ゲーミフィケーションやボードゲームという形式に置いて検証を試みているのである。ファクト(事実)よりイデア(理念・思想)寄りになっており、論文というより企画書の体に近くなっている。