縄文ヲシテ文字


ヲシテ文字48音図表


「ト」「トノヲシテ」= 和


和の道

歴史観と言えば、「和の歴史」「和の系譜」でみる見方をしています。
その元は聖徳太子「和をもって貴しとなす」にあると言えます。
その「和の思想」は、縄文時代、今から5000年以上前にあったようです。
定説ではないので一般にはほとんど知られていませんし、
受け入れられていないようですが、
個人的には支持しているものです。
その論拠は、縄文文字ヲシテ文字による古文書に記されているからです。
縄文時代の文化や文明は私が思っていたものとは違っています。
それらの古文書をヲシテ文書といわれているもので、
古事記、日本書紀の元にもなっているということが証明もされています。
それらの文書の中に「和の思想」が明確に記されています。
ヲシテ文書を成すヲシテ文字体系、言語体系が存在していたことを前提としているのです。
その言語体系、文字体系は、抽象度の高い図形的記号的な文字の体系です。
◯や△、□、円弧、渦巻き、点や線などを素材とした文字として構築されています。
「◯△□の経営」ということで、
「◯△□」という図形的記号的なものを原理とした経営理論を追求していく中で
縄文文字ヲシテ文字と出会ったのです。
それは、私にとって感性文字・感性言語とも見えるものでした。
私たちは理性言語の中で生まれ育ち教育されてきました。
思風先生の感性論哲学も理性言語で語られ、記されていると言えます。
それらを通して感性論哲学を学んできました。
学べば学ぶほど、感性論哲学で言う感性と離れていくような感じを抱いていたのです。
感性という本質を理性で理解しようとすればするほど感性から離れていく感覚です。
自己矛盾、自己乖離、というような感覚です。
そのような感覚を抱きながら学びを進めていました。
その学びの成果が「感性論哲学ライフデザインチャート」「感性経営曼陀羅図」というチャート的な表現でした。
私の場合、本当に理解納得、腑に落ちると絵やチャートが描けるのです。
マンガチック、ということでしょうか。
感性を理性言語で表現しようとするところに問題があったようです。
その辺りのことを思風先生に質問したことがあります。
先生は、理性言語に対して感性言語というものがありますよ、と。
それが具体的に何なのかは言ってくれませんでしたが。
「◯△□の経営」を追求していた私にとって、
◯△□や図形的記号的要素で構築されているヲシテ文字を感性言語として捉えるようになり、
ヲシテ文字の研究も進めて来たのでした。
縄文時代の縄文人たちは、天地自然と共存し、感性全開で生きていたのだと考えられます。
また、そういう文字を創り出し、宇宙と繋がった感性と理性が同居していた文字を使いながら暮らしていた。
言霊、音霊、数霊、形霊等の霊も宿っていた文字を使っていたのではないか。
語調としても五七調でヲシテ文書は記されているのです。
この調子は俳句や短歌の世界に今も生きて繋がっているのです。
万葉集にー見られるように、歌の前に人は平等であるという考え方、
日本人は歌の民族ということであり、
五七調で記されたヲシテ文書ということも考え合わせると、
いろいろと腑に落ちてくるのです。
まだ、その途中にいる者ですが、縄文の思想、縄文の文化がよりわかり、
ものになるように思えるのです。感性を、理性言語で学ぶのに加え、
感性言語でも学ぶことができるようになることで、
私が抱いていた違和感が和らぐように思うものです。

ヲシテのスイッチ

縄文の心、ヲシテの心。ヲシテに学び、ヲシテを今に生かすこと。
食の世界、住の世界、衣の世界等すべてに活かす。
今に生かすのにはインターネット、AIの世界、経済の世界を避けて通ることはできません。
私の立場・お役目は、コーチング&コンサル、そして研修教育、その現場対応と創造。
その起点に据えているのが「感性論哲学」という哲学。
それと共鳴しているのがヲシテ。
それらをつなげているのは「◯△◻︎」。
私の「◯△◻︎の視点」です。
それで展開・構築したのが「◯△◻︎の経営」。
「一を聞いて十を知る」ごとく、
「◯△◻︎」という「一」を示すことで「十、百、千」を知ることのできる、
トータルな経営の世界を見せてあげることができるようになっています。
経営者の「おもい」からすべてが始まるのです。
それは感性、ヲシテ、「ト」の心、魂。
それはすでに私たちの遺伝子に組み込まれており、
宇宙・命・人間の大本である感性の海から生まれています。
そのことに気づき、目覚め、意識するだけで変わることができる、と思っています。
そのカギの一つがヲシテだと確信するものです。